ご希望の体育館・武道館情報を無料で検索できます。

施設検索/ホームメイト・リサーチTOP

スポランド
体育館・武道館
トップページへ戻る
トップページへ戻る

体育館情報

ハンドボールの名選手



伝説のように語り継がれる往年の名選手から、記憶に新しい選手まで、ハンドボール界の名プレーヤーを紹介します。

国内選手は、「ガモ」の愛称で世界からも注目された蒲生晴明氏や、「むささびシュート」を考案した野田清氏、ヨーロッパのトップリーグで初めてプレーをした近森克彦氏、名ゴールキーパーの橋本行弘氏、さらに近年のプレーヤーとして高い人気と実力を誇る宮崎大輔氏をピックアップしてご紹介します。ここでは割愛しましたが、国内の名選手としては他に、ヨーロッパカップに日本人で初めて出場した新井友彦氏や、1984年(昭和59年)のロサンゼルス・オリンピックや4年後のソウル・オリンピックで活躍した西山清氏などが挙げられます。

海外からは、世界的評価の高いプレーヤーや、日本のハンドボール界にも貢献した選手を中心に厳選しました。

蒲生晴明

蒲生晴明

1954年(昭和29年)4月、東京都生まれ。読み仮名は、がもうせいめい。世界に通用する日本選手として、数々の異業を成し遂げた名プレーヤー。国内で最も有名なハンドボール選手のひとりです。

当時の日本人としては珍しい身長192cm、体重92kgの大柄な体から放つシュートを武器に、国内の強豪社会人チーム、大同特殊鋼の主砲として活躍。1973年(昭和48年)、蒲生氏が大学生1年のときに初めて日本代表選手に選出されてから、日本代表選手として3度のオリンピックに出場。世界選手権、アジア選手権各3回、アジア大会、世界学生選手権でも日本代表選手として出場し、本場ヨーロッパでも注目を浴びました。

プレーヤー引退後は全日本監督を経て、日本オリンピック委員会(JOC)競技者育成プログラム構築プロジェクト中央班チーフ、JOC理事、中部大学教授、日本ハンドボール協会の国際担当常務理事などを歴任。

近森克彦

近森克彦

1945年(昭和20年)9月、山口県生まれ。読み仮名は、ちかもりかつひこ。ハンドボールが盛んなドイツのプロリーグで活躍。海外のトップリーグでプレーしたのは、近森氏が日本人プレーヤーとしては初。

芝浦工業大学在籍時に日本代表選手として世界選手権に出場。大学卒業後には大崎電気三陽商会などに在籍。1970年(昭和45年)にフランスで開催された世界選手権に出場したのち、同年、ドイツの名門リーグ・ブンデスリーガの「ハンブルガー・シュポルト・フェァアイン」に移籍し、レギュラーの座を獲得。1972年(昭和47年)に帰国し、その年の夏に開催されたミュンヘン・オリンピックにも日本代表として選ばれました。プレーヤー引退後は全日本実業団ハンドボール連盟理事長にも就任。

野田 清

野田 清

1946年(昭和21年)4月、愛知県生まれ。読み仮名は、のだきよし。抜群の身体能力を生かした豪快なプレーで観客を魅了し、ハンドボールの知名度アップにも貢献した日本ハンドボール史上に残る名プレーヤー。

立教大学に在籍していたとき、世界でも通用するプレーヤーになることを目標に独自のシュートを開発。それは、サイドからゴールをねらうプロンジョンシュートをベースに、角度がほとんどない位置からダイビングして放つシュート。マスコミから「むささびシュート」との愛称を与えられて国内で話題を呼び、ヨーロッパでも「ノダ・シュート」と呼ばれて絶賛されました。大学卒業後は大同特殊鋼のクラブチームに在籍し、1972年(昭和47年)のミュンヘン・オリンピックで日本代表選手として活躍。プレーヤー引退後はソウル・オリンピック監督、日本ハンドボール協会強化部長など着任。

橋本 行弘

橋本 行弘

1965年(昭和40年)9月、愛知県生まれ。読み仮名は、はしもとゆきひろ。国内チームや、ドイツの名門リーグ「ハンドボール・ブンデスリーガ」のグロスバルシュタットにて鉄壁の守護神として名を馳せた名ゴールキーパー。

1984年(昭和59年)にホンダのクラブチームへ所属し、日本代表選手として1988年(昭和63年)のソウル・オリンピックなどに出場。1997年(平成9年)の熊本世界選手権で、世界の強豪、フランス代表チームによるシュートを次々と防いだことで国内や海外の専門家に高く評価され、今も伝説として語られています。2000年(平成12年)に先述のグロスバルシュタットへ移籍し、同年の第7回ヨーロッパシティカップで優勝メンバーとして活躍。翌年に帰国後はプレーヤーを引退し、ホンダの監督に就任しました。

宮崎大輔

宮崎大輔

1981年(昭和56年)6月、大分県生まれ。読み仮名は、みやざきだいすけ。ハンドボール界のみならず、幅広いファンに支持される人気アスリート。実力の面でも日本のハンドボール史上で最高とも称されています。

身長175cm、体重75kgと小柄な体格ながら、卓越した身体能力によるスピード感あふれる攻撃力で高校生の頃から活躍。日本体育大学に在籍中の2001年(平成13年)、日本ハンドボール協会の海外研修生としてスペインへ渡り、現地のトップクラブで実戦を積み、そののちに現地の2部リーグのクラブに所属。帰国後、2003年(平成15年)から大崎電気に所属。2009年(平成21年)秋からスペイントップリーグ・ASOBALのクラブ「BMアルコベンダス」へ移籍。ロンドンオリンピック出場のために約1年で帰国し、再び日本で活躍。自らをハンドボールの広告搭と認識し、ハンドボールのメジャー化に貢献したことでも知られます。

田中 美音子

田中 美音子

1975年(昭和50年)1月、大阪府生まれ。読み仮名は、たなかみねこ。国内外の数々の大会で得点王に輝いた名シューターであり、その実力は「女子ハンドボール界の生きる伝説」と称される程。

四天王寺高校在学時の1993年(平成5年)に18歳で女子世界選手権大会、同ジュニア大会の日本代表選手に選ばれて以来、エースとして日本代表チームを牽引。高校卒業後は大和銀行のクラブチームに所属。1995年(平成7年)9月にはブラジルで開催された世界女子ジュニア選手権にて77ゴールを挙げて得点王に。3年後にバンコクで開催された第13回アジア大会でも得点王。2000年(平成12年)から2年間はデンマークのクラブチーム「スコーバッケン」に在籍し、帰国後はソニーセミコンダクト九州へ移籍。2007年(平成19年)2月には日本リーグで女子初の通算1000得点をマークしました。

藏田 照美

藏田 照美

1951年(昭和26年)2月、熊本県生まれ。読み仮名は、くらたてるみ。昭和期の日本女子ハンドボールを牽引した人物。日本の男女ハンドボール史上で唯一、オリンピックで得点王となった名プレーヤーです。

藏田氏は中学校時代からハンドボールに取り組み、菊池農業高校卒業後、ハンドボールの実業団チームがある熊本市・大洋デパートに入社。1973年(昭和48年)から世界女子ハンドボール選手権の日本代表選手に選ばれ、2年後の第6回世界選手権にも出場して活躍。日本の女子ハンドボールチームがこれまでにただ一度出場できたオリンピックである1976年(昭和51年)のモントリオール・オリンピックでは、5試合で28得点を挙げ、女子得点王に輝きました。

同・1976年(昭和51年)には、移籍したオムロン(当時は立石電機)で数々の大会を制覇。プレーヤー引退後は、中学校のハンドボールチームのコーチなどに従事結婚により姓は中川氏に変更になりました。

早船愛子

早船愛子

1980年(昭和55年)1月、富山県生まれ。読み仮名は、はやふねあいこ。世界最高峰とも言われるデンマーク女子リーグやスペインリーグで2004年(平成16年)から約6年間に亘ってプレーをした世界レベルの選手。

富山の氷見高校を卒業後、筑波大学を経て、実業団チームがあるシャトレーゼへ入社。2004年(平成16年)に同チームが解散となったことをきっかけに、デンマークのプロリーグへ自ら売り込み、移籍に成功。3クラブを渡りながら3シーズンを過ごし、日本の女子プレーヤーとしては初めてヨーロッパのフェデレーションカップにも出場しました。2007年(平成19年)秋からスペインリーグのクラブチームで活躍したのち、2009年(平成21年)に帰国。三重バイオレットアイリスに移籍後、2014年(平成26年)に引退。

ベルンハルト・ケンパ(ドイツ)

ベルンハルト・ケンパ(ドイツ)

Bernhard Kempa(ベルンハルト・ケンパ)氏は、1920年(大正9年)11月、西ドイツ(現:ドイツ)生まれ。ハンドボールがまだ11人制だった時代に活躍し、20世紀最高のプレーヤーとも言われる人物。「ムッシュウ・ハンドボール」の名で時代を超えてハンドボーラーたちの尊敬を集めています。

現役時代には1952年(昭和27年)、1955年(昭和30年)には世界選手権で優勝。プレーヤー引退後の1960年(昭和35年)代にはクラブチームの監督となり、空中でキャッチしてそのままシュートをする攻撃方法「スカイプレー」を考案。こうした経緯から、スカイプレーは「ケンパ・トリック」とも呼ばれることがあります。2002年(平成14年)には、氏の名前を掲げたハンドボール専門ブランド「kempa」がドイツで誕生し、今ではハンドボール関連用品のリーディングブランドとして愛されています。

マグナス・ヴィスランデル(スウェーデン)

マグナス・ヴィスランデル(スウェーデン)

マグナス・ヴィスランデル(Magnus Wislander)氏は、1964年(昭和39年)2月、スウェーデン生まれ。国際ハンドボール連盟(IHF)により、2000年(平成12年)に「20世紀世界最優秀男子選手」に選ばれたスタープレーヤー。同賞の女子選手はシナイダ・ツルチーナ氏。

ポストでありながらゲームメイクができる万能選手として知られ、早くも少年時代の地元クラブで頭角を発揮。1985年(昭和60年)の世界ジュニア選手権ではチームを準優勝に導き、同年にスウェーデン代表に選ばれ、翌年の世界選手権で活躍。その後も世界選手権に8度出場して2度優勝、オリンピック代表選手としても4度出場し、3度もの銀メダル獲得に貢献しました。1991年(平成3年)にドイツ・ブンデスリーガのクラブ「キール」に移籍して12年間活動。2003年(平成15年)に現役引退。

ミケル・ハンセン(デンマーク)

ミケル・ハンセン(デンマーク)

Mikkel Hansen(ミケル・ハンセン)氏は、1987年(昭和62年)10月、デンマーク生まれ。イヴァノ・バリッチと並び、現代最高のプレーヤーと称される人物。ポジションはレフトバック。

ハンドボール選手としてオリンピックに出場した経験を持つ父のもとで生まれ育ち、19歳でスペインの名門クラブ「FCバルセロナ」へ入団。その後、デンマークで創設されたクラブチーム「AG コペンハーゲン」のエースとして活躍。2011年(平成23年)には国際ハンドボール連盟(IHF)の年間最優秀選手、世界選手権でも得点王にも輝いています。シュートに特に定評があり、美しいフォームから繰り出される破壊力のあるロングシュートや、ステップなしでの強烈なシュート、ディフェンダーの脇下から放つシュートなど多彩な技で観客を魅了。デンマーク代表選手としては、2008年(平成20年)の北京オリンピックなどに出場しています。

イヴァノ・バリッチ(クロアチア)

イヴァノ・バリッチ(クロアチア)

イヴァノ・バリッチ(Ivano Balić )氏は、1979年(昭和54年)4月、クロアチア生まれ。2006年(平成18年)のヨーロッパ男子ハンドボール選手権でのMVP獲得を皮切りに、数々の賞を獲得。2014年(平成26年)8月現在、「世界最高の司令塔」のひとりと称されるセンタープレーヤーです。

バスケットボール選手を経て、ハンドボール選手となった経歴を持ち、プロとしては主にスペインのプロリーグで活躍。クロアチア代表選手としては2003年(平成15年)の世界男子ハンドボール選手権で優勝、翌年のアテネ・オリンピックで金メダル獲得。個人では、先述のヨーロッパ男子ハンドボール選手権の他、2007年(平成19年)の同大会でMVP、翌年の同大会ではベストセブンに選ばれました。2003年(平成15年)と2006年(平成18年)には国際ハンドボール連盟(IHF)の年間最優秀選手にもなっています。

シナイダ・ツルチーナ(旧ソ連)

シナイダ・ツルチーナ(旧ソ連)

シナイダ・ツルチーナ(Sinaida Turtschina)氏は、1946年(昭和21年)旧ソ連・キエフ生まれ。旧姓はストーリチェンコ。国際ハンドボール連盟(IHF)により、2000年(平成12年)に「20世紀世界最優秀女子選手」に選ばれた女子プレーヤー。

13歳の頃から地元の強豪チーム「スパルターク・キエフ」にてハンドボールに取り組み、その才能が開花。当時史上最強と言われた旧ソ連代表チームの主軸となり、1976年(昭和51年)にはモントリオール・オリンピックで金メダル、1988年(昭和63年)のソウル・オリンピックでは銀メダルを獲得。1982年(昭和57年)、1986年(昭和61年)の世界選手権を連覇。所属クラブの「スパルターク・キエフ」でもチームをヨーロッパチャンピオンズリーグ優勝へ計13回も導きました。プレーヤー引退後は、ウクライナハンドボール協会の会長に就任。

ロズヴィータ・クラウゼ・(ドイツ)

ロズヴィータ・クラウゼ・(ドイツ)

ロズヴィータ・クラウゼ(Roswitha Krause)氏は、1949年(昭和24年)11月、東ドイツ(現:ドイツ)生まれ。20世紀を代表する女子ハンドボールプレーヤーのひとり。東ドイツ代表選手としてオリンピックにハンドボールと水泳の2競技で出場し、メダルを獲得したことでも知られます。

1968年(昭和43年)のメキシコ・オリンピックでは、東ドイツ代表で水泳競技の選手としても出場し、4×100m自由形リレーで銀メダルを獲得。8年後の1976年(昭和51年)のモントリオール・オリンピックではハンドボールの東ドイツ代表選手として出場し銀メダルに輝く。4年後の1980年(昭和55年)のモスクワ・オリンピックでもハンドボールの代表選手となり、銅メダルを獲得しています。プレーヤー引退後は、ベルリン大学で水泳とハンドボールの指導に従事。

カティツァ・イレシュ(旧ユーゴスラビア)

カティツァ・イレシュ(旧ユーゴスラビア)

Katica Iles(カティツァ・イレシュ)氏は、1946年(昭和21年)3月、旧ユーゴスラビア生まれ。女子最高プレーヤーのひとりと称され、日本のハンドボール実業団リーグにて男女を通じて初めてプレーしたヨーロッパのトッププレーヤーです。

1973年(昭和48年)の世界女子選手権では旧ユーゴスラビア代表選手として出場して優勝。その後も世界女子選手権に4度出場、1980年(昭和55年)のモスクワ・オリンピックではキャプテンとして旧ユーゴスラビア代表チームを率い、銀メダルに導きました。1982年(昭和57年)に来日し、立石電機へ移籍。翌年のロサンゼルス・オリンピック女子予選では、外国人として初めて日本女子代表チームのコーチに就任しました。その後は1990年(平成2年)代のユーゴスラビア紛争を乗り越え、クロアチア・オリンピック委員会などで活動していると伝えられています。