ご希望の体育館・武道館情報を無料で検索できます。

施設検索/ホームメイト・リサーチTOP

スポランド
体育館・武道館
トップページへ戻る
トップページへ戻る

体育館情報

ボクシングの名選手



長い歴史を重ねながら洗練を続けてきたボクシングというスポーツには、偉大な功績を残した名選手がたくさんいます。日本人としてボクシングの普及に尽力した名選手や、自らが勝ち進むことで後進の道を拓いた名選手、今なおトレーナーとして後進の育成に情熱を注いでいる元ボクサーなどがたくさんいます。そして世界に目を向ければ、引退してもなお偉大なボクサーとして世界中から尊敬を集め続けるスター選手も枚挙に暇がありません。

ここでは日本人ボクサー、そして外国人ボクサーについて名選手を何人かご紹介します。それぞれが残した伝説や軌跡について知っておくと、ボクシングに参加することも、見ることも、今よりもっと楽しくなるはずです。

渡辺勇次郎

渡辺勇次郎

「日本ボクシングの父」と呼ばれる名選手が渡辺勇次郎です。彼はボクシングがまだ日本であまり知られていない時代の1906年(明治39年)に渡米し、サンフランシスコでボクシングを学びました。そして1921年(大正10年)に帰国し、日本で初めての本格的なボクシングジム「日本拳闘倶楽部」を設立しています。

渡辺が率いる日本拳闘倶楽部は、設立の翌年には日本初となる本格的なボクシング興行を主催し、日本でボクシングが普及する大きなきっかけを作りました。またトレーナーとして多くの名選手を生み出している点も、渡辺の大きな功績だと言えます。また、現在ある日本プロボクシング協会(JPBA)の前身である「全日本プロフェッショナル拳闘協会」の結成にも参加しています。

「名選手」と言うよりは、名トレーナーの呼ぶのがふさわしいような渡辺ですが、アメリカで現役選手だった時代には、カリフォルニア州で王者になったと伝えられています。日本人ボクサーが海外で活躍した、初めての例と言うことになります。

荻野貞行

荻野貞行

荻野貞行は渡辺勇次郎の教え子であり、日本ボクシング創成期に活躍した名選手のひとりです。渡辺勇次郎が「日本ボクシングの父」と評されるのに対し、荻野は男性ながら「日本ボクシングの母」と呼ばれています。

荻野は渡辺が設立した日本拳闘倶楽部に入りボクシングを学び始めました。やがて彼はそこでメキメキと頭角を現し、日本拳闘倶楽部を代表する名選手「四天王」のひとりに数えられるようになります。荻野は日本拳闘倶楽部で活躍を続け、1922年(大正11年)には日本フェザー級チャンピオンの名誉を勝ち取っています。また荻野はスピードとテクニックに優れた選手として活躍したばかりか、端正なルックスでもあったことから1926年(大正15年)に製作された映画では主演を演じたこともある程です。さらに日本拳闘倶楽部から離脱したあとには帝国拳闘会拳闘社(現:帝拳プロモーションの前身)を創設したり、1934年(昭和9年)にはボクシング雑誌を創刊したりと、日本においてボクシングが普及する大きな役割を担いました。

ピストン堀口

ピストン堀口

昭和初期の名ボクサーと語られる人物がピストン堀口です。堀口は本名の「堀口恒男」で選手として登録していましたが、「ピストン戦法」と呼ばれる猛攻を得意としていたことから、いつからか「ピストン堀口」と呼ばれるようになったと伝えられています。堀口は渡辺が設立した日本拳闘倶楽部でボクシングを学んだ教え子のひとりです。1933年(昭和8年)にプロデビューを果たしてから5回の引き分けのあとに47連勝もの記録を樹立し、やがて日本フェザー級チャンピオン、東洋フェザー級チャンピオン、日本ミドル級チャンピオンの名誉を次々と勝ち取っていきます。こうした活躍から堀口は世界に通用する実力を持っていたとされていますが、太平洋戦争の影響により世界戦に挑戦することは最後まで叶いませんでした。なお、日本ボクシング史上「世紀の一戦」と評された笹崎たけしとの対戦に勝利して以降はは、「拳聖」と評されています。

白井義男

白井義男

日本人として初めて世界王者になったボクサーが白井義男です。白井は戦時中にプロボクサーになり8戦全勝という好調な滑り出しで活躍を始めるものの、招集を受けて海軍に従軍することになり、整備士として働く中で腰を痛めてしまいます。やがて終戦が訪れ、白井は再びボクサーとして活躍しようと努めますが、患ってしまった腰痛により思うように活躍できない日々が続きます。

そんな白井を見初めたのが、GHQの生物学者カーンでした。カーンは白井のボクサーとしての才能を見抜き、全面的なバックアップを行なうことを決めます。そしてカーンの指導と援助により白井の才能は開花し、1952年(昭和27年)に世界タイトルマッチに勝利、世界フライ級王者と言う日本人初の世界タイトルを勝ち取ります。またチャンピオンになって以降も4度の防衛に成功するなど、日本人プロボクサーとして初めて世界で活躍した例になりました。戦後間もなく落ち込んだ雰囲気だった日本全体にとって、白井の活躍は「希望の光」として日本人の多くを励ましたと言われています。

ファイティング原田

ファイティング原田

世界で活躍した優れたボクサーのみが名を連ねる「世界ボクシング殿堂」に、日本人ボクサーで初めて名を刻んだのがファイティング原田です。強い圧力を伴う猛攻(ラッシュ)を得意として戦ったボクサーで、原田のラッシュは元世界ヘビー級王者マイク・タイソンも参考にしたと言われています。原田は日本人初となる二階級制覇(世界フライ級・バンタム級)を果たし、三階級目となる世界フェザー級王者のタイトルマッチに挑みましたが、相手側のアンフェアとも言えるジャッジにより惜しくも三階級制覇を逃しています。また現役引退後は後進の育成に力を注ぎ、ボクシング中継の解説者としても活躍しました。歳を重ねてからは日本ボクシングにかかわる数々の要職を歴任し、現在も顧問として日本ボクシング界を支え続けています。

高築正子

高築正子

日本人女性プロボクサーのパイオニアが高築(たかつき)正子です。高築は17歳でボクシングジムに入門し、ボクサーとしての技術を磨き始めますが、当時の日本ではボクシングを習う女性が極めて稀な時代であったため、高築は男性の練習生とスパーリングを行なっていたと言われています。1974年(昭和49年)に高築はエキシビジョンマッチで女子ボクサーとして観衆の前で戦うことを経験しますが、日本では女子プロボクサーが活躍する舞台がありませんでした。高築は1976年(昭和51年)に女子プロボクシングが解禁されたばかりのアメリカへ単身渡り、現地でプロライセンスを取得して、日本人で初めての女子プロボクサーになります。

高築は1978年(昭和53年)に帰国して、改めて(アメリカでの)ライセンスを持つ女子プロボクサーとして観衆の前で戦います。なお、このときの対戦相手はキックボクサーでした。

ライカ(風神ライカ)

ライカ(風神ライカ)

日本人女子プロボクサーとして世界王座三階級制覇を達成し、日本に女子プロボクシングが設立される、その大きなあと押しになったと評される名選手がライカです。現在はリングネームを「風神ライカ」に改名しています。

ライカは歯科衛生士として働いていましたが、あるボクシング漫画の影響を受けて22歳からボクシングを始めます。当時はまだ日本で女子プロボクサーの存在が認められていなかったため、女子ボクサーが活躍できる舞台はアマチュアだけです。ライカはボクシングを始めた1年後には全日本アマチュアで最優秀選手に選ばれるなど、その才能をメキメキと表してきます。

1999年(平成11年)に日本女子ボクシング協会(JWBC)が創立されると、ライカはJWBCで念願のプロデビューを果たします。そして2002年(平成14年)には日本初代女子フェザー級王座を勝ち取り、同年には続けて女子国際ボクシング協会(WIBA)世界フェザー級タイトルマッチで世界王座を獲得。その後は階級の転向を経て2006年(平成18年)に国際女子ボクサー協会(IFBA)世界スーパーライト級王座を勝ち取り、また同年にはWIBA世界ライト級王座タイトルマッチにも勝利して三階級制覇を成し遂げます。

JBCでは長らく女子プロボクサーを認定してきませんでしたが、ライカという世界で活躍する選手の存在は、ボクシング全体の隆盛を目指すJBCにとって見逃せない存在です。やがてJBCは女子プロボクサーの認定を始めますが、その背景には明らかにライカの活躍があったと言わざるを得ません。

シュガー・レイ・ロビンソン

シュガー・レイ・ロビンソン

世界で活躍した全階級の歴代ボクサーの中で、史上最高のボクサーだと言われる名選手がアメリカのシュガー・レイ・ロビンソンです。彼は「オールタイム・パウンド・フォー・パウンド(階級を超えた最も偉大なボクサー)」や「拳聖」などの異名で呼ばれます。

ロビンソンは1940年代を中心に活躍したボクサーですが、まだ現代程ボクシングのテクニックが洗練されていないこの時代において、現代並みのボクシングテクニックを持っていたとされています。つまり現代ボクシングのファイトスタイルは、概ねロビンソンの戦い方を参考にしているとも言えます。強敵との歴史に残る名勝負や見事なノックアウトを重ね続け、世界のボクシング人気を盤石なものにしたスター選手のひとりとしても扱われます。なお、ロビンソンが果たした特に大きな偉業は、同一階級での世界王座5度の獲得です。彼は一度引退してからも再びリングに戻り、再び王者になる程の名選手でした。

モハメド・アリ

モハメド・アリ

1960年代を中心に活躍したアメリカのボクサー、モハメド・アリの異名は「ヘビー級史上最速の一人」です。そのボクシングスタイルは「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と喩えられるもので、華麗なフットワークと鋭いパンチを駆使したアウトスタイルのボクシングにより、世界ヘビー級を通算で3回制覇しています。

モハメド・アリはアマチュア時代の1960年(昭和35年)にローマオリンピックへ出場し、ライトヘビー級で優勝して金メダルを獲得しています(当時の名前はカシアス・クレイ)。その後プロに転向したアリはライトヘビー級で戦績を重ねつつ、ヘビー級へと転向してWBA・WBC統一世界ヘビー級王座へ挑戦し、見事これを勝ち取ります。しかしやがて勃発したベトナム戦争への徴兵を拒否したことで王座を剥奪されてしまいますが、再び実力で王座を勝ち取り、また数年後には敗北し王座を追われたものの再戦し、3度王座に返り咲いています。

ヘンリー・アームストロング

ヘンリー・アームストロング

ヘンリー・アームストロングは、1930年代に活躍したアメリカのボクサーです。彼が果たした最大の偉業は、史上唯一となる三階級の「同時」制覇です。彼は世界王者のタイトルをフェザー級、ライト級、ウェルター級の三階級で同時に(アームストロングの選手としての階級としてはフェザー級のまま、上の階級に挑戦して王者になったことを表します)獲得し、ボクシングの歴史にその名を刻みました。

彼のファイトスタイルを表現する言葉は「殺人ハンク」、「ハンマリング・ハンク」、「永久機関」などです。アームストロングは鋭い足さばきで相手に接近し、至近距離から強烈な左右のフックを浴びせる猛烈な戦い方で勝利を重ねました。このファイトスタイルを実現できた理由は、彼が持つ圧倒的なスタミナにあったと言われています。

ジョー・ルイス

ジョー・ルイス

1930年代から40年代にかけて活躍したアメリカの名選手がジョー・ルイスです。彼の異名は「褐色の爆撃機(ブラウン・ボマー)」。現在も全階級を通して破られていない、世界王座連続25回防衛をヘビー級で記録しています。

ジョー・ルイスの活躍を語るとき、外せない逸話が第二次世界大戦直前に行なわれた1戦です。1938年(昭和13年)にドイツからヒトラーの命令でアメリカへ送り込まれてきたボクサー、マックス・シュメリングとの対戦がマッチメイクされ、ジョー・ルイスはアメリカの代表として国家の威信を背負って戦い勝利します。この戦いは「世界大戦の前哨戦」として喧伝されたこともあり、ルイスにとっては名を挙げる大きなチャンスになりました。当時のアメリカではまだまだ社会的に不利な立場にいたアフリカ系アメリカ人ボクサーでありながらも、この勝利でルイスはアメリカの英雄になったのです。

ウィリー・ペップ

ウィリー・ペップ

1940年代に活躍したアメリカ人ボクサーのウィリー・ペップは、現代でも通用するようなディフェンス能力を持っていた名選手だと伝えられています。素早いフットワークと柔軟なボディワークを組み合わせて相手の攻撃をかわし続け、付けられた異名は「ウィル・オ・ウィスプ」。捕まえられない、追ってはいけないといったニュアンスで、日本語に翻訳する場合では「鬼火」などと評されています。

なお、ペップはデビューから2年後には世界フェザー級王者を獲得し、デビューから62戦まで連勝を重ねています。

ただし日本人にとっては悪名もあります。ペップは現役引退後にレフェリーになり、ファイティング原田が三階級制覇を目指したタイトルマッチで主審を務めました。当時現地の審判制度では判定もレフェリーが1人で担うことになっており、ペップは明らかにアンフェアと言える判定を行ない、原田は三階級制覇を逃してしまいます。

ペップは歴史に残る名選手ですが、現役引退後のこのミスジャッジは、後世まで語られる逸話になってしまいました。

バーバラ・バトリック

バーバラ・バトリック

イングランド出身のバーバラ・バトリックは、女子ボクシングの発展に大きく寄与した名ボクサーです。バトリックは女子ボクシングが始まりだした頃にアメリカへ渡り、プロボクサーとして活躍しています。彼女の細かな試合記録は残されていませんが、1954年(昭和29年)にアメリカの国営テレビが初めて女子ボクシングを放送したとき、リング上で戦っていたのはバーバラ・バトリックだったそうです。またバトリックは、1957年(昭和32年)に女子の世界チャンピオンになったと記録されています。

バトリックは選手としての活躍を終えて以降は、後進にチャンスを与えるよう努めます。1990年(平成2年)には女子最古のボクシング団体である女子国際ボクシング連盟(WIBF)を設立。女子の世界王座認定団体として、多くの女子ボクサーに活躍の舞台を与えました。

レイラ・アリ

レイラ・アリ

世界ヘビー級王座であり、偉大なボクサーのひとりとして多くのファンに支持されるモハメド・アリ。彼の娘として誕生したレイラ・アリは、18歳のときに観戦した女子ボクサーの影響を受け、父と同じボクサーの道を歩き始めます。

やがてプロデビューした彼女は2002年(平成14年)に世界タイトルへの挑戦権を手に入れます。タイトルは国際女子ボクシング連盟(IWBF)、女子国際ボクシング協会(WIBA)、国際ボクシング協会(IBA)、この3団体統一の世界スーパーミドル級王座というビッグタイトルでした。そしてレイラ・アリはこのタイトルマッチに見事勝利し、三団体統一王者の名誉を勝ち取ります。また3年後の2005年(平成17年)には、これまで男子のみのボクシング団体だった世界ボクシング評議会(WBC)に女子タイトルが創設され、レイラ・アリはその王者決定戦に出場、これも勝利を勝ち取ります。レイラはつまり、4団体の統一王座という偉業を果たしたことになります。

その後、彼女は結婚を期に無敗のまま引退しますが、彼女の存在はアメリカにおける女子ボクシング人気の火付け役となり、結果として女子ボクシング界に大きな功績を残したことになります。