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バスケットボールの名選手



「神様」と呼ばれたマイケル・ジョーダンを始め、数々のスーパースターがNBAの歴史を作ってきました。1950年代から活躍し、ディフェンスの常識と人種差別の壁を打ち破ったビル・ラッセル。1980年代にロサンゼルス・レイカーズ黄金時代を築いたカリーム・アブドゥル・ジャバーとマジック・ジョンソン。レイカーズと優勝を争ったNBAの名門ボストン・セルティックスのラリー・バード。1990年以降は、ポスト・マイケル・ジョーダンがNBAスーパースターの称号になりました。

初の日本人NBAプレーヤーとなった田臥勇太をはじめ、多くの選手が日本バスケ界を引っ張ってきました。ミスター・バスケットボールの異名とった佐古賢一や日本ナンバーワン・シューター折茂武彦が日本バスケの礎を築きました。五十嵐圭や柏木真介ら、次世代の選手が今の日本を引っ張っています。山田かがりや大神雄子らが女子バスケをけん引してきました。

マイケル・ジョーダン(アメリカ)

マイケル・ジョーダン(アメリカ)

1984年(昭和59年)から2003年(平成15年)までシカゴ・ブルズとワシントン・ウィザーズで活躍したシューティングガードで、背番号は23番。誰もが認める歴史上最高のバスケットボール選手です。ポイントガード、スモールフォワードもこなし、5度のシーズンMVP、6度のファイナルMVP、10度の得点王、3度のスティール王など、オフェンスもディフェンスもすべてにおいて超一流の技術を持っていました。空中で自在に相手選手をかわしてゴールを決める様はまさに神業で「エア・ジョーダン」のあだ名の由来となっています。タイトルがかかった重要な局面で決勝点を決める勝負強さもスーパースターの証と言えます。シカゴ・ブルズでは、チームを2度のNBA3連覇に導き、黄金期を築きました。1986年(昭和61年)のプレーオフでは、63得点を記録し、「あれはマイケル・ジョーダンの姿をした神だった」と相手選手がコメントしたのをはじめ、その優れた人間性も合わさり「バスケの神様」と呼ばれています。

マジック・ジョンソン(アメリカ)

マジック・ジョンソン(アメリカ)

1979年(昭和54年)から1991年(平成3年)までロサンゼルス・レイカーズで活躍したポイントガードで、背番号32番は永久欠番となっています。身長206センチでありながら、センターではなくパスを武器にポイントガードとしてプレーした珍しい選手です。パスセンスに優れ、ノールックパスやレッグスルーなど、相手の意表をつく多彩なパスでチームの攻撃をけん引しました。カリーム・アブドゥル・ジャバーやジェームズ・ウォージーらとともに、1980年代のレイカーズの最大の武器であった速攻で数多くの勝利を積み上げました。マジック・ジョンソンのパスから始まる速攻は「ショータイム」と形容され、レイカーズを5度のNBA優勝に導きました。1991年(平成3年)に引退するまでにトリプル・ダブルを138回記録(NBA歴代2位)しており、得点やパスだけでなくディフェンス面でも高い能力を誇っていました。

コービー・ブライアント(アメリカ)

コービー・ブライアント(アメリカ)

1996年(平成8年)からロサンゼルス・レイカーズでプレーしているシューティングガードで、背番号は24番。マイケル・ジョーダンが保持していたオールスター通算得点記録を塗り替え、ネクスト・ジョーダンとの呼び声高い選手です。得点エリアが広く、正確なテクニックと強靭な肉体を駆使し、難しい体勢からのスリーポイントシュートからミッドレンジ、レイアップ、ダンクシュートまで幅広いプレーで多くの得点を決めています。試合終盤にチームを勝利へと導くシュートを度々沈めており、その勝負強さはマイケル・ジョーダン以上と言われています。試合の中で爆発的に得点を量産すると呼ばれる時間帯があり「コービー・タイム」と呼ばれています。優れたディフェンダーでもあり、2008年(平成20年)には「現役選手が選ぶ最もディフェンスされたくない選手」第1位に選ばれました。

ラリー・バード(アメリカ)

ラリー・バード(アメリカ)

1978年(昭和53年)から1992年(平成4年)までボストン・セルティックスでプレーしたスモールフォワードで、背番号は33番。走力やジャンプ力は平均以下と言われながらも、それを補って余りある高い技術と戦術理解度を有する選手でした。ボールを肩に担ぐような独特のフォームのNBA史上屈指のスリーポイントシューターとして知られています。アウトサイド主戦場としていましたが、リバウンドやルーズボールの奪取も果敢に行なう激しいプレーで人々を魅了しました。同年にプロ入りしたレイカーズのマジック・ジョンソンを抑えてNBA新人賞を受賞するなど、大学時代から続く2人のライバル関係は世間の注目を集めました。弱小チームだったセルティックスを1981年(昭和56年)の初優勝を皮切りに4季連続ファイナル進出と2度の優勝を成し遂げる強豪へと押し上げました。

シャキール・オニール(アメリカ)

シャキール・オニール(アメリカ)

1992年(平成4年)から2011年(平成23年)までロサンゼルス・レイカーズやフェニックス・サンズ、ボストン・セルティックス、マイアミ・ヒートなど多くのクラブを渡り歩いたセンター。NBA入りした当時は、身長216センチ、体重153キロの巨大な体躯を活かしたパワープレーを得意としていましたが、次第に力と技術をかね備えたNBAを代表する選手へと成長していきました。ペイントエリアで圧倒的な強さを誇り、相手選手を弾き飛ばしながらゴールする「シャック・アタック」と呼ばれるダンクシュートは、オニールのプレーの真骨頂と言えます。また、速攻時のダッシュからのアリウープや遅攻におけるパスさばきにも定評があります。ディフェンス時にもスクリーンやリバウンドでチームに貢献し、力と技術を備えたリーグトップクラスのセンターとなりました。

カリーム・アブドゥル・ジャバー(アメリカ)

カリーム・アブドゥル・ジャバー(アメリカ)

1969年(昭和44年)から1989年(平成元年)までミルウォーキー・バックスとロサンゼルス・レイカーズでプレーしたセンターで、背番号は33番。NBA通算得点記録歴代1位の38,387点を誇る名選手です。背番号33番は、アブドゥル・ジャバーの影響からバスケットボールでのエースナンバーとして扱われ、ラリー・バードやスコッティ・ピッペン、大学時代のマジック・ジョンソンも愛用していました。スカイフックと呼ばれるゴールより高い位置から放たれるシュートでゴールを量産し、レイカーズの中心選手としてマジック・ジョンソンとともに80年代黄金期を築きました。また、1970年(昭和45年)の新人賞を皮切りに、NBA優勝6回、シーズンMVP6回、オールスター選出19回、さらにNBA歴代2位となる1,560試合出場、歴代3位の17,400リバウンドなど、華々しい記録に彩られた20年間の選手生活を送りました。

ビル・ラッセル(アメリカ)

ビル・ラッセル(アメリカ)

1956年(昭和31年)から1969年(昭和44年)までボストン・セルティックスでプレーしたセンターで、背番号は6番。人種差別が蔓延していた時代に生まれた黒人初のNBAスター選手です。ブロックショットやリバウンドを得意とし、ディフェンスそのものに革新をもたらした歴代最高のフェフェンダーと言われています。セルティックスでの13年間で8連覇を含むNBAファイナル優勝11回、シーズンMVP5回など、史上最多のチャンピオンズリング保有数を誇っています。1969年(昭和44年)にはセルティックスの選手兼ヘッドコーチに就任し、全米プロスポーツ史上初の黒人ヘッドコーチとなり、引退後もセルティックスやシアトル・スーパーソニックスやサクラメント・キングスでヘッドコーチを務めました。2009年(平成21年)NBAはラッセルの功績を讃えて、NBAファイナルMVPを「ビル・ラッセル・NBAファイナルMVP賞」と改名しています。

レブロン・ジェームズ(アメリカ)

レブロン・ジェームズ(アメリカ)

2003年(平成15年)からクリーブランド・キャバリアーズやマイアミ・ヒートで活躍するスモールフォワードで、背番号は憧れのマイケル・ジョーダンと同じ23番。2009、2010、2012、2013年(平成21、22、24、25年)と5年で4度のシーズンMVPを受賞しており、現在最もマイケル・ジョーダンに近い選手と言われています。恵まれた肉体に走力、パスセンスなど様々な能力をハイレベルでかね備え、ディフェンスからシュートまで、あらゆる役割を担ってチームをけん引する選手です。ヒートでは2シーズン連続で得点、リバウンド、アシストのスタッツリーダーになりました。同チームを4年連続でNBAファイナル、2連覇に導き、スーパースターの仲間入りを果たしました。故郷オハイオ州にNBAチャンピオンリングを持ち帰ることを目指し、古巣クリーブランド・キャバリアーズに復帰しました。

田臥勇太

田臥勇太

2004年(平成16年)にフェニックス・サンズと契約した日本人初のNBAプレーヤーで、ポジションはポイントガード。173センチという小さな体格を活かした選手たちの間を縫うような素早いプレーや、広い視野を活かしたパスを武器としています。中学時代から頭角を現し、高校バスケの名門・能代工業高校では高校総体、全国高校選抜、国体の3年連続3冠の偉業を達成しました。トヨタ自動車アルバルクを退団後、アメリカ独立リーグのロングビーチ・ジャムでの活躍が認められ、2004年(平成16年)にはフェニックス・サンズと契約しました。開幕戦を含む4試合で7得点3アシストを記録し、NBAにその名を刻みました。サマーリーグやNBAデベロップメントリーグのチームを渡り歩いたのち、2008年(平成20年)にJBLのリンク栃木ブレックスに加入しました。

佐古賢一

佐古賢一

1993年(平成5年)から2011年(平成23年)まで、いすゞ自動車ギガキャッツやアイシンシーホースで活躍したポイントガード。ギガキャッツ入団当初の背番号は13番、4年目以降は2番を付けていました。シュートやパスの精度の高さから「ミスター・バスケットボール」との異名をとっていました。通算9度のリーグ優勝、12度の天皇杯優勝で経験しており、両チームで黄金期を築きました。3度のJLBリーグMVPや9度のJBLベスト5、2度のアシスト王、2度のスリーポイント賞、フリースロー賞1度と、個人タイトルも数多く獲得しています。2007年(平成19年)のアジア選手権では日本代表の主将を務めました。2011年(平成23年)にひざの怪我を理由に引退してからは、日本バスケットボール協会理事、NBL広島ドラゴンフライズのヘッドコーチを歴任しています。

折茂武彦

折茂武彦

1993年(平成5年)からトヨタ自動車やレラカムイ北海道で活躍してきたシューティングガードで、背番号は9番。中指の爪を引っ掛けてリリースする独特のフォームから放つスリーポイントシュートを最大の武器とし、JBL史上初の7,000得点を達成した日本が誇る名シューターです。また、パスやディフェンスにも定評があり、スクリーンプレイは日本屈指と言われています。1994年(平成6年)のアジア大会で日本代表に選ばれてから、男子アジア選手権や男子世界選手権など数多くの国際舞台で日本代表を引っ張ってきました。2011年(平成23年)にはレバンガ北海道を創設し、国内プロ団体球技では異例の選手兼オーナーとなりました。30代半ばで現役を退くプロ選手が多い中、2013年(平成25年)のNBLオールスターに選出されるなど、40歳を過ぎてもチームの中心として活躍し続けています。

五十嵐圭

五十嵐圭

2003年(平成15年)に日立サンロッカーズに入団して以来、トヨタ自動車アルバルク、三菱電機ダイヤモンドドルフィンズで活躍するポイントガード。自身のラッキーナンバーである背番号7を愛用しています。ジェリコ・パブリセヴィッチ元日本代表ヘッドコーチに「世界レベルのスピード」と評される素早いドリブルが持ち味で、速攻やインサイドに切り込んでのプレーを得意としています。2006年(平成18年)から2009年(平成21年)まで日立サンロッカーズのキャプテンを務め、日本代表選手として2006年の世界選手権にも出場しています。2013年(平成25年)NBLオールスターに名を連ねる実力に加え「日本バスケ界の貴公子」と呼ばれる顔立ちで芸能事務所のアスリート部門にも所属しており、日本バスケットボール界の人気を高めてきた選手です。

柏木真介

柏木真介

2004年(平成16年)に日立サンロッカーズへ入団し、現在はアイシンシーホースで活躍するポイントガードで、背番号は3番。高い運動能力とリーダーシップとゲームメーカーとして資質をかね備え、中央大学の先輩にあたる佐古賢一の後継者との呼び声高い選手です。シュートやパスだけでなく、俊敏性を活かしたディフェンスも柏木選手の長所です。日立サンロッカーズ入団1年目にしてオールスターに選出される活躍をみせ、新人王とスティール賞に輝きました。2006年(平成18年)にアイシンシーホースへ移籍し、プロ選手となります。日本を代表するポイントガードに成長した2007-2008シーズンには、アイシンシーホースを2冠に導き、JBLレギュラーシーズンMVPとJBLプレーオフMVPの両方を手中に収めました。

岡山恭崇

岡山恭崇

住友金属工業籠球団(住友金属スパークス)で活躍した身長230センチの超大型センター。長身を活かしたプレーで、1979年(昭和54年)住友金属スパークスへの入団1年目からJBLリバウンド王と新人王を獲得しました。JBLで8年に渡り活躍をし、得点王や敢闘賞も獲得しました。1981年(昭和56年)にはNBAのドラフトでカリフォルニア州オークランドを本拠地にしているNBAのゴールデンステート・ウォリアーズからドラフト8巡の10番目で指名を受け、NBAチームからドラフト指名を受けた唯一の日本人選手となりました。しかし、オリンピックの舞台でのプレーを希望したため、NBAでのプレーは実現しませんでした。1990年(昭和55年)に現役を引退してからは、住友金属スパークスと母校大阪商業大学でアシスタントコーチを歴任しました。

山田かがり

山田かがり

バスケットボール女子日本リーグ(WJBL)のシャンソンVマジックを経て富士通レッドウェーブで活躍したフォワード。利き腕は左。桜花学園高校(当時は名古屋短期大学付属高校)3年次に日本代表として世界選手権に出場し、その後に入団したシャンソンVマジックでは公式戦54連勝を達成し、黄金時代を築きました。1996年(平成8年)アトランタ五輪には選手兼アドバイザーとして出場し、1998年(平成10年)にバンコクで開催されたアジア大会では金メダルに輝きました。2004年(平成16年)富士通レッドウェーブで現役を引退したあと、母校・桜花学園高校でコーチを務めました。その後、女子事業団である山形銀行ライヤーズのヘッドコーチとして招聘され、初年度に全日本実業団バスケットボール競技大会、全日本社会人バスケットボール選手権大会、全日本事業団バスケットボール選手権大会の3冠の偉業を達成しました。

大神雄子

大神雄子

現在のJX-ENEOSサンフラワーズやWNBAフェニックス・マーキュリーなどでプレーし、現在中国の山西興瑞で活躍するポイントガード。ワンハンドのスリーポイントシュートからドライブまで広範なシュートレンジから得点を重ねています。桜花学園高校(当時は名古屋短大付属高校)で3冠を達成し、高校在学中に7つの全国タイトルを獲得しました。JX-ENEOSサンフラワーズのキャプテンを務めたのち、2008年(平成20年)アリゾナ州のフェニックス・サンズのWNBAの姉妹チームであり前年のWNBA覇者フェニックス・マーキュリーと契約しました。同チームで活躍した荻野美樹子に続く2人目のWNBAプレーヤーとして23試合に出場し、56得点を上げました。2013年(平成25年)、今度は中国女子バスケットボールリーグへの期限付きで移籍しました。