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バスケットボールの歴史



今や北米4大プロスポーツのひとつとして絶大な人気を誇るバスケットボールは、今から約120年前のアメリカで誕生しました。最初のゲームを行なってからすぐに多くの人を魅了したバスケットボールはアメリカを中心に世界各地へと広がりを見せており、その発展に伴い何度もルールが改正されているものの、その基本原則は今も頑なに守られています。現在、バスケットボールの競技人口は世界に4億5000万人(1998年時点)、FIBA(国際バスケットボール連盟)に加盟している国と地域は213となっています(2006年時点)。北米のプロリーグであるNBAをはじめ、世界各地でレベルの高いプロリーグにて多くの選手が活躍していること、また、オリンピックの正式種目に採用されたことも国際的な競技人口が増加している要因だと考えられています。

アメリカにおける普及と発展

アメリカにおける普及と発展

バスケットボールが誕生した国際YMCAトレーニングスクールがアメリカ東部のマサチューセッツ州にあったことにも起因して、東部エリア一帯のバスケットボールにかける熱量は他の地域には比べものにならない程だったと言います。体育館のフロアの使用時間はどのスポーツよりもバスケットボールが優先され、使用料の免除や観覧席の無料開放が行なわれるなどの特別扱いにより、さらに人気を集めていきました。

アメリカ全土への広がり

アメリカ全土への広がり

しかし一方では、YMCAの体育館においてバスケットボール以外のスポーツができなくなったことへの不満の声が出るようになり、また、バスケットボールにおけるラフプレーへの批判が目立ち始めたことから、1896年(明治29年)、ニュージャージー州のYMCAではバスケットボールの体育館使用禁止を決定。苦肉の策としてバスケットボールの試合を別の会場で開催したことがきっかけとなり、会場使用料とプレーヤーの報酬を観客から集める仕組みが誕生しました。この話はすぐさまアメリカ中へと広がり、観客から観戦料をもらってバスケットボールの試合を行なうチームがあちこちで誕生しました。1898年(明治31年)には、そうしたチームが集まった「ナショナル・バスケットボール・リーグ(NBL)」が結成され、プロリーグとしての活動をスタートしました。また、ほぼ同時期に「ナショナル・リーグ・ニューヨーク」や「インターステイツ・リーグ」「アメリカン・リーグ」などが誕生。この頃は、ひとつのチームが特定のリーグに所属する決まりはなかったため、複数のリーグを渡り歩くチームや、リーグ無所属のまま試合に挑むチームもありました。その後も、さらにいくつかのプロリーグが結成されたものの、その多くは長続きしませんでした。とは言え、優秀なバスケットボールプレーヤーにはきちんと報酬が支払われる仕組みができあがっており、現在のNBAには及ばないものの、当時の水準で言えばじゅうぶんに贅沢ができる程度であったと言われています。この頃のプレーヤーの報酬は出場ゲーム数に基づく出来高払いが基本であったため、他リーグへの移籍やもとのチームへの復帰も自由に行なわれていました。1923年(大正12年)までの間にいくつものリーグが結成されては消滅していきましたが、全米の注目を集めるまでには至りませんでした。プロバスケットボールにおいて、プレーヤーと所属チームがきちんとした契約を結ぶようになったのは1920年代後半になってからです。シーズンごとにチーム側が年俸を提示し、それに納得したプレーヤーはそのチームに所属することになるため、これまでのように1人のプレーヤーが他のチームへ自由に行き来することは不可能となりました。

第二次世界大戦後のバスケットボール

第二次世界大戦後のバスケットボール

第二次世界大戦中は多くの男性が戦地に出征していたこともあり、スポーツや娯楽そのものに勢いのない時期が続きましたが、戦争が終わった翌年の1946年(昭和21年)、アメリカにはバスケットボールのプロプレーヤー候補があふれていました。当時人気のプロスポーツと言えばアイスホッケーが中心でしたが、アイスホッケーチームのオーナーたちはバスケットボールに目を付けました。アイスホッケーのゲームがないときに自分が所有する屋内競技場でバスケットボールのゲームを開催することで、さらなる収益を狙ったのがその目的です。そうして、新しいバスケットボールリーグ「BAA(バスケットボール・アソシエーション・オブ・アメリカ)」を設立し、アイスホッケーチームのオーナーが所有する11チームが加盟しました。その後、NBLと合併する形でNBAが誕生する訳ですが、現在のNBAがアメリカとカナダに所属チームを置くかたちになっているのはBAAのルーツがアイスホッケーから来ているためです。

黒人プレーヤーの加入

黒人プレーヤーの加入

今ではNBAに所属するプレーヤーのうち80%近くを黒人プレーヤーが占めていますが、NBA以前のプロリーグでは黒人プレーヤーは特定のリーグにしか所属できず、白人チームとのゲームも行なわれていませんでした。NBAが設立された翌年、C.H.クーパーがNBAで初めての黒人プレーヤーとなったことを皮切りに、多くのチームに続々と黒人プレーヤーが加入することとなり、それがNBAにとって大きな転機となりました。それまで長い間、白人リーグとかかわることが許されなかったことで黒人プレーヤーは独自のバスケットボールスタイルを育んでおり、そこで培ったスピードと迫力に満ちた彼らのプレーは観客席を沸かせ、ひいてはNBAのゲームのあり方まで変えてしまったとも言われています。飽きることのない試合展開で、まさに「魅せるスポーツ」を体現した黒人プレーヤーは、今やバスケットボールに欠かせない存在として世界中のバスケットボールファンを魅了しています。

ルールの移り変わり

ルールの移り変わり

ネイスミスがバスケットボールを考案してからの120年間、競技の普及・発展に伴い何度もルール改正が行なわれてきました。しかし、ネイスミスが最初に提言した基本的原則「軽くて両手で持てる程度の大きさのボールを使用する」「ボールを持ったまま位置を変えることを禁ずる」「ゲーム中は両チームの誰もがボールに触れられ、保持できる」「プレーヤーはコート内のどこででもプレーが可能。ただし、体がぶつかるプレーは禁ずる」「水平のゴールを頭上に設置する」の5原則は現在も変わっておらず、そのことが、プレーヤーの技能の向上ならびにプレーの種類の広がりに貢献してきたのだとも言われています。

1チームの人数

1チームの人数

バスケットボールが考案された当初、ネイスミスが定めたルールは13条のみでした。チームの人数について、ネイスミスは「両チームが同じ人数ならば何人でも良い」と考えていたことから、ルールの中にはチームの人数に関する事項は記載されておらず、ネイスミスが学生を集めて初めてゲームを行なった際、その場にいたのが18人だったため9人ずつを2チームに分けてゲームを行ないました。そのことが発端となり、その後バスケットボールの普及とともに「バスケットボールの1チームの人数は9人」という暗黙のルールが広がりました。しかし、ルールそのものには人数を規制するものがないため、体育の授業などでは50人対50人でバスケットボールのゲームを行なうこともあったようです。そうした状況を踏まえ、やはりチームの人数は制限すべきとの意見が強まり、1893年(明治26年)には「バスケットボールを競技として行なう場合、体育館が小さければ5人、大きければ9人を1チームの人数とする」というルールが追加されました。その後何度かの改正を繰り返し、1897年(明治30年)、体育館の広さに関係なく1チームの人数は5人と定められました。

ファウルとバイオレーション

ファウルとバイオレーション

ネイスミスは、バスケットボールではアメリカンフットボールのような激しい攻防をなるべく排除したいと考えており、そうして定められたのが「乱暴な行為を厳しく禁止すること」「その違反の回数の記録と退場の条件」「相手チームへの見返り」です。それらの考え方がもととなり、現在は、退場の条件となりうる違反を「ファウル」、ボールの所有権が相手へと移る違反を「バイオレーション」としてルール化されています。

得点(ポイント)

得点(ポイント)

得点についても最初の13条ルールには特に記載がありませんでしたが、しばらくの間は、シュートが決まったチームは1点を獲得するという解釈のもとで広く運用されていました。その後、フィールドゴールは2点、フリースローは1点というルールが制定されたのは1895年(明治28年)のことです。当初のフリースローラインはゴールから6.1mの距離でしたが、遠すぎてほとんど成功しないとの理由から4.6mに短縮されました。それから約90年後の1984年(昭和59年)、プレーヤーの体格の違いによる得点力を少しでも解消し、プレーヤーにとっても観客にとってもゲームのおもしろさが増すような新しいルールを設けるべきとの考えにより、スリーポイントシュート制が導入されました。当初のスリーポイントラインはゴールから6.25mの距離に定められていましたが、2011年(平成23年)より、スリーポイントラインはゴールから6.75mの距離へ変更されています。

コート

コート

バスケットボールが誕生した当時、コートの大きさは特に決まっていませんでした。ラインも引かれておらず、コートが区切られていないせいで負傷者が続出したことから、1894年(明治27年)には周囲の障害物から1mのところにラインを引き、その区画内をコートとするよう定めました。1896年(明治29年)にはゴールの真下に引かれたエンドラインが、1902年(明治35年)にはコートの中央に半径60cmの円を描いたセンターサークルが誕生しました。1906年(明治39年)にはコートサイズの基準として「最大は縦27.5m、横16.8m。最小は縦21.4m、横16.8m」であることが定められ、その後、現在の「縦28m、横15m」のサイズとなりました。「8秒ルール」は、自チームのコートでボールを保持してから8秒以内にボールを相手チームのコートへと進めなければならないというルールですが、このルールのもととなったのは1932年(昭和7年)に制定された「10秒ルール」です。このルールにより両チームのコートをしっかり分ける必要ができたため、コート中央にセンターラインを引くことが定められました。

外国への広がり

外国への広がり

アメリカ人以外で、バスケットボールを一番初めにプレーしたのはカナダ人です。と言うのも、1891年(明治24年)にバスケットボール考案者のネイスミスが行なった最初のゲームで18人の学生がプレーした際、その中に4人のカナダ人留学生がいたことが分かっているためです。その後、YMCAを通じてカナダ国内へバスケットボールが持ち込まれましたが、もともとスキーやアイスホッケーといった冬期スポーツに適した国であるため、バスケットボール考案のきっかけである「新しい冬期スポーツの必要性」が高くなかったことから、急速には広がらなかったとされています。

南アメリカにおいては、1896年(明治29年)、ブラジルのサンパウロに滞在していた宣教師が現地の人々にバスケットボールを伝えとされています。ブラジルからアルゼンチンやウルグアイなど、南アメリカの各地へと広がっていきました。また、カリブ海地域においてもバスケットボールは初期の頃から広く受け入れられており、1926年(昭和元年)頃にはすでにジャマイカ全島の男子が学校体育のスポーツ種目としてプレーしていたと伝えられています。キューバやハイチでもバスケットボールは古くから盛んにプレーされており、プエルトリコでは1930年(昭和5年)に協会設立されて以来、国技として浸透しています。

ヨーロッパ

ヨーロッパ

ヨーロッパ諸国でのバスケットボールは、まずフランスへと伝わりました。バスケットボールが誕生して6年後の1897年(明治30年)には、バスケットボールのルールが書かれた本が出版されていたことが確認されています。また、1914年(大正3年)に始まった第一次世界大戦によってヨーロッパ各地にはアメリカ軍の兵営があり、その敷地内には必ずバスケットゴールが設置されていたのですが、バスケットをプレーするアメリカ兵の様子を見たフランス兵がプレーし始めたことも、フランス国内におけるバスケットボールの普及をあと押ししたと言われています。チェコスロバキアでは、F.M.マレックという人物がバスケットボールの普及に尽力し、それに伴ってバスケットボールチームの数もどんどん増えていきました。トルコでは1924年(大正13年)にルールが翻訳され、ルールブックが刊行されています。1932年(昭和7年)にスイスのジュネーブで開かれた会議では、チェコスロバキア、ポルトガル、スイスなど10カ国が参加し、国際バスケットボール連盟(FIBA)を結成するとともに国際ルールを制定しました。1935年(昭和10年)にはスイスのジュネーブで第1回ヨーロッパ選手権を開催し、1957年(昭和32年)に第1回男子クラブ選手権が行なわれました。

アジア

アジア

アジアにおいては、まず中国で大きな人気を得ました。1898年(明治31年)にアメリカ人から伝わったバスケットボールはその技術指導とともに本格的な広がりを見せ、1908年(明治41年)に当時の北京の様子を記した文献には、北京のあちこちでバスケットゴールが設置してある様子が残されています。バスケットボールのゲームが開催される会場には多くの人が集まり、試合の行方を楽しそうに観戦している様子も記されています。日本では、アメリカの国際YMCAトレーニングスクールで学んだ大森兵蔵が、日本に帰国してバスケットボールを伝えたのが始まりです。フィリピンでは1910年(明治43年)にバスケットボールの協会が設立され、マニラYMCAをフィリピン政府が協力して進行の推進役を果たしました。インドにおいても、バスケットボールは人気のあるスポーツです。1920年(大正9年)頃にベンガル・バスケットボール協会が結成され、国内だけでなく、ミャンマー(当時のビルマ)やスリランカ(当時のセイロン)などから、バスケットボールのインストラクターの派遣を要請されるとの報告が挙がる程、インド及び周辺の国々において重要なスポーツのひとつとなっていきました。

アフリカ

アフリカ

アフリカ地域においては、1925年(大正14年)にエジプトで協会が結成されたため、それより以前から普及が進んでいたものと考えられています。1961年(昭和26年)には、エジプトのカイロで開かれた会議に、エジプト、モロッコ、エチオピア、スーダン、トーゴ、ザンビア、シエラレオネ、ガーナ、ギニア、リビア、マリ、ブルキナファソの代表が出席し、「アフリカ・バスケットボール協会(AFABA)」を設立しました。翌1962年(昭和27年)には、この中の10カ国が参加した「アフリカ選手権」を開催しています。

日本における普及と発展

日本における普及と発展

日本国内にバスケットボールを持ち込んだのも、もちろんYMCAです。1880年(明治13年)、東京・京橋区の協会で東京YMCAが創立されたのを機に、大阪、横浜、京都、札幌、神戸、名古屋、長崎、仙台、近江八幡と、日本国内でも次々に都市YMCAが誕生しました。バスケットボールを公式に日本に紹介したのは、バスケットボール発祥の地である国際YMCAトレーニングスクールで学んだ、大森兵蔵という人物です。アメリカ留学を経て日本へ帰国したのち、1908年(明治41年)に東京YMCAでバスケットボールの指導を始めました。しかし、当時の日本の体育事情はとても整っているとは言い難く、大森が指導を務めていた東京YMCAですら、体育館やプールの整備はまだ手つかずの状態でした。その頃、多くの日本国民が触れることのできるスポーツと言えば学校制度の中で定められた体育と軍隊における身体訓練のみで、学校を卒業してからも積極的に運動しようという考えを持つ人はごくわずかだったと伝えられています。

大日本体育協会の創設に準備段階からかかわるなど、日本におけるスポーツ振興に情熱を注いできた大森でしたが、結核により1913年(大正2年)に逝去。その後、アメリカYMCA同盟から日本へ派遣された体育指導スタッフのF.H.ブラウンが日本各地のYMCAを視察して回り、スポーツ環境をより充実させるとともにバスケットボール講座を開き、指導を行ないました。

極東選手権競技大会

極東選手権競技大会

アジアへと目を向けてみると、1913年(大正2年)から、陸上競技、競泳、野球、テニス、バスケットボールなどの競技をアジア地域から参加した国の代表選手で戦う「極東選手権競技大会」がスタートしました。極東選手権競技大会には日本も第1回より参加していましたが、当時の日本のバスケットボール界は代表チームを選出できるようなレベルになかったため、第1回第2回の大会におけるバスケットボール種目は不参加に終わっていました。しかし、1917年(大正6年)に行なわれる第3回大会が東京で開催されることが決まったことを機に、京都YMCAのバスケットボールチームが日本代表として競技に参加することが決定。第3回極東選手権競技大会は日本が開催する初めての国際スポーツ大会であったものの、参加国はフィリピンと中国のみで、日本のバスケットボールチームの成績は2勝2敗に終わり、バスケットボール種目はフィリピンの優勝で幕を閉じました。その後、1930年(昭和5年)にバスケットボールの普及と発展及び競技レベルの向上を目的として「JABBA(日本バスケットボール協会)」が設立されました。

プロリーグと実業団チーム

プロリーグと実業団チーム

アメリカでは1920年代からプロリーグの設立が相次いでいましたが、日本におけるスポーツ環境はそのほとんどがアマチュアに分類される「実業団チーム」をメインとしたものであり、バスケットボール種目に限らず多くの運動競技において、世界で活躍するスポーツプレーヤーとの間には大きな壁がありました。1967年(昭和42年)には日本バスケットボール協会と日本実業団バスケットボール連盟に所属していたチームが参加するかたちで「日本リーグ」が発足しましたが、基本的には実業団リーグであり、プロプレーヤーが誕生するには至りませんでした。ちなみに、日本リーグの男子チームは1995年(平成7年)に設立された「バスケットボール日本リーグ機構」へと移管され、2007年(平成19年)には「日本バスケットボールリーグ(JBL)」とリニューアル後、2013年(平成25年)からは「ナショナル・バスケットボール・リーグ(NBL)」として運営されています。一方、日本初のプロバスケットボールリーグとして2005年(平成17年)11月5日に開幕したのが「日本プロバスケットボールリーグ」、通称「bjリーグ」です。一企業に依存しない地域密着性を柱としたチーム作りを掲げ、当初は6チームでスタートしました。年を追うごとに加盟チームが増加しており、2013-2014シーズンの参加チームは22チームとなっています。ちなみに、2013年(平成25年)に発足した「ナショナル・バスケットボール・リーグ」については、当初は日本バスケットボールリーグ(JBL)と日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)を統合した完全プロリーグとして構想をされていましたが、企業チームがプロ化に難色を示したため統合は実現せず、プロと事業団の混合リーグとなっています。